別役実「天才バカボンのパパなのだ」、を観終わったときの感想は面白くないだった。そのあと一緒に観に行った友人が、良いものを観たときは言葉にできないのに、良くないもの観るといっぱい出てくる。と言って酒を交わしながら、アフタートークをしていたんだけれど、私はすっきりしない気持ちでいた。何がつまらないと聞けば、中身がないとか空っぽだとかそういう感想しか出てこないのも、何か違うとおもったし、理由が上手く説明できないのは理解が追い付いていないからで、その状態でツマラナイと切り捨ててしまうことも違う気がした。

原作は不条理演劇で有名な別役実の作品。別役実の作品には、電信柱が必ずと言っていいほど一本きり立っている。__「舞台には電信柱が一本。夕暮れ。風が吹いている」のト書ではじまる
初めのうち映画やテレビを見慣れているから、初めは舞台でおこる事件や役者の台詞に注目してしまった。舞台で起こる出来事や、言葉がどんな意味を持つか読み解こうとしても全く理解ができない。それに、いつまでたってもストーリーは前に進まない。ストーリーというか、その状況。状況は登場人物がもがけばもがくほど、事態は悪い方向へ進む。私はだんだんと苛々したし、不可解でどうでもいい出来事をいつまでも繰り返す登場人物と、時々挟まれるくだらない冗談にお手上げ状態だった。私がよく見る映画やドラマは、ある人の言動や事件がストーリーを展開し、言動とその結果が明確であった。
作品中、指示語が多く使われる「あれ」「これ」「それ」は登場人物の間を飛び交い、それぞれのズレを観客は幾度も目の当りにする。気が利く物語はない。最初の”所長のお尻を誰が叩くか”(どうでもいい)から、クライマックスは”誰が一番青酸カリ”が多いか(どうでもいい上にこの後、一人以外全員自殺する)へと、話し合いは一度もまとまらず、その場に流れ流されるまま死んでしまう。登場人物は何をも止められなかった。始めと終わりが驚くほど結びつかない。何の脈絡もない様子は、とんでもない伝言ゲームを見ているかのよう。どんな言動も解決へと導かず、事態は混乱するというか、話はどんどんとそれ、そのこと事態を不思議とも思わず登場人物達は一度も思想を共有しない。唯一生き延びた所長は、あの中で1番まともな人間であった。そしてマイノリティで、それは不利だった。
茶番のようだ、と感じたのはおそらく正しい。そして、それは私達に跳ね返ってくる。あそこにいるのは私達だ、と思う。茶番なのは劇団や別役実でなく、茶番をする私達をただ演じている。演劇はその場で起こったことを、目撃しているという私達によって、証言される。滑稽で流されるまま、私達足掻いて、逸れて、沈んでる。天才バカボンの名言「それでいいのだ!」が、私達を肯定しているのか嘲笑っているのかわからないけれど、このままではいたくないと思う、いつだってそう思ってきたし、あの日から迷言になってしまった

一本の電柱がが夕暮れに立ったとき、それはなぜ夕暮れなのか。

ベケット「ゴドーを待ちながら」__田舎道。一本の木。

きっと感動に麻痺していたんだ。なにをみても感動ばかり与えてくるから勘違いしてた、、舞台は日常現実から隔離されたり、対立する嘘としての空間ではない、もう一つの現実空間、そうなんだろうなきっと。

マームの藤田さんの大雑談会もめっちゃ楽しかった。その前にマームの「まってた食卓、そこ、きっと」がさいっこーーーーだった。マームの音楽の使い方、批判も多いんだろうな~と思ってたけど、雑談会でエモさに屈しないのよかった、私エモいのに弱いんだよ
演劇、とても面白い